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社長さんの知恵袋 第5回 コンテンツってなんだろう?:2010年8月

f:id:fujita244:20100921190846j:plain佐々木俊尚さん)

 

前回、メディアがユビキタス化によって大きく変貌しているのではないか、という話をしました。

そして、メディアとコンテンツの関係を考えないといけないのではないか、ということで締めていました。 ということで、今回は、コンテンツとひとくちに言うけど、何なんだろうということを考えてみたいと思います。

 

コンテンツとコンテナとコンベヤ

 

メディアと私たちの関係が、デバイスの変化や放送システムの変化に伴って変化し、その変化に応じてメディアに載せる中身(コンテンツ)も、商品形態(パッケージ)も変化せざるを得ないのが、まさに現代なのだと言えます。

iPadという新しいデバイスの登場で、それに合わせたコンテンツとパッケージが求められていて、それが書籍であれば、電子書籍でしょうし、ゲームやサービスであればアプリであったりするでしょう。

では、このアプリのコンテンツとパッケージは誰が作るのでしょうか?

それが、今後のデザイナーと言う仕事にとって重要な問いだと私は考えます。

ですが、そのことを考える前に、「コンテンツ」とか「パッケージ」とは何かを考えてみたいと思います。 コンテンツの現代的な位置づけを考える上で、グーグルの及川卓也さんが自分のブログ「Nothing ventured, nothing gained.」で展開した「コンテンツとコンテナとコンベヤ」という論は避けて通れないかなと思います。 引用しますと

メディアによりユーザーに提供されるものはコンテンツである。これをどのような表現形態で提供するかを決めるのがコンテナである。メディアの場合、コンテナはフォーマットと呼んでも良いかもしれない。ちょうどいろいろな荷物がコンテナに詰められて運ばれる様子を想像して欲しい。 実際にコンテナという形態に包まれて実際にユーザーに届ける部分がコンベヤである。

とあります。 これを引用し展開しているのが佐々木俊尚さんの「2011年新聞・テレビ消滅」で、コンテナを握るものがプラットフォーマー(プラットフォームを作るもの)としてすべてを掻っ攫って行くのだ、というわけです。

これに沿って考えていくと、「コンテンツ」は、これまで同様に記事を書いたり、写真を撮ったり、イラストを書いたりするクリエイターによって生み出されるでしょう。そして、それを「コンテナ」にどう乗せるかを考える人がディレクターで、その「コンテナ」を用意して「コンベヤ」との接点でお金を用意する人がプロデューサーと呼ばれて来たのだと思います。

新聞とかテレビというマスメディアを考えると、コンテナとコンベヤでいいのかもしれませんが、雑誌や書籍、WEBといった媒体を考えると、どうも、このコンテナ、コンベヤ論では語りにくいなあ、と感じてしまいます。

及川さんもそこはお分かりで、テレビや新聞における垂直統合モデルが、水平分散モデルに成ったのだと指摘しています。

この垂直統合モデルが水平分散モデルに移行しつつあるのが、今のメディアの状況だ。

そして、さらに、この論を展開しているのがこちらのエントリ。 [ネット社会]ネット時代のメディア戦略(その2) ― メディアを支える3つ“C” ここでは、コンテナについて、さらに詳しい定義が生まれています。

コンテナはコンテンツをユーザーに届けるためのパッケージだ。荷物を送る際に段ボールに入れるが、その段ボールのようなものと考えて欲しい。実際には、メディアではコンテナである段ボールそのものがユーザーが目にするものになるので、生素材であるコンテンツをフォーマットするものであるとも考えられる。

 ここで私としては、メディアを見るデバイスに合わせた技術的なフォーマットが実はかなり重要になってくるのではないかと予測しています。それが課金システムやコンテンツに広告をパックすることで無料でコンテンツを届ける仕組みにつながっているからです。

 だからといって佐々木俊尚さんが書いているようにプラットフォーム万歳となるかどうかは懐疑的なのですが、いずれにしても、コンテナとコンベヤではなく、別の定義の仕方が必要ではないかと考えています。

 

コンテンツとプロダクツとパッケージ

 

そこで、コンテンツをベースにして考えると、コンテンツがマルチメディアで使われる、つまりマルチユースになり有効活用されるためには、コンテンツを加工して、各プラットフォームに合わせたプロトコルを有する存在にしないといけません。

様々なメディアに対応した電子デバイスに映し出されるために、プロトコルを有したコンテンツ、これを私は「パッケージ」と呼びたいと思います。

「パッケージ化」という言葉は以前からあり、ひとまとまりの番組なりコンテンツの集合体をある販売可能な形状に統合する作業を指していました。 その統合する仕事は、印刷媒体の場合には、これまで主に「編集」と呼ばれ、「編集者」という職業の人が担っていました。

編集者は、コンテンツをクリエイターと一緒に作り出すときに、内容だけではなく販売形態としてのサイズや装丁を考えるなど「パッケージ」をどう作るかも行ってきました。 それは、雑誌であったり単行本であったり新書であったり辞書であったり、とにかく、ある形態の「本」でした。これらは、印刷することが前提となっているパッケージで、その印刷物を販売するシステムを握っているのが出版社でした。

また、レコードやCD、ビデオやDVDなどは、パッケージに著作権と販売システムが絡み合っていて、それを差配出来る人がプロデューサーであり、コンテンツの制作責任者はディレクターと呼ばれてきました。

メディアがユビキタス化したことと、コンテンツがデジタル化したことは親和性が高く、デジタル化したコンテンツは、パッケージに依存せずどこでも届けることが可能なシステムをうみました。それが、ネット配信です。

ラジオ番組というコンテンツを番組表に沿って流すラジオから分離し、音声コンテンツとしてネット配信したのが「ポッドキャスト」です。ラジオ番組をいつでも、どこでも、誰でも聞くことができるようになっただけでなく、ラジオ番組以外の録音したコンテンツをポッドキャスティングによって流通可能な製品(プロダクツ)として、再生産化(リパッケージ)しメディアに提供できるようになりました。

ここで整理しておくと、これまで流通してきた「商品形態」の核となるクリエイティブな塊、オリジナリティがあって、商品価値がある生産物、それを「コンテンツ」と呼ぶことにします。 「コンテンツ」を大量に販売するには、ある形態を取る必要があります。その販売のための規格にそった形態を「パッケージ」と呼ぶことにします。

「コンテンツ」と「パッケージ」の間には、規格に合わせるために工業化したり、ある形状にしたり、販売しやすいように箱に入れたり、加工したりする工程が必要になります。この加工した状態のコンテンツを「プロダクツ」と呼ぶことにします。

つまり、「コンテンツ」を流通しやすい形状に加工すると「プロダクツ」になり、「プロダクツ」を販売しやすいように値段をつけたり、マーケティングを施したりすると「パッケージ」された状態になるわけです。

ある「コンテンツ」をどういう「プロダクツ」にするかは、編集者やディレクターの仕事で、どういう「パッケージ」にするかはプロデューサーの仕事と言えるでしょうか。

 

プロダクツをつくるのは誰か

 

いわば、コンテナがパッケージであり、コンテンツとパッケージの前のプロダクツというのは生産現場の論理を付加することで、コンテナでの課金システムとか、デザイナーの立ち位置とか別の角度からの議論がクリアになるのではないかというのが、私の提案です。

メディア論を考える際の販売側の論理である「コンベヤ」については、後日また考えてみたいと思います。

コンテンツを生むクリエイターが往々にして陥るのは、パッケージとして販売する方法を度外視した自分勝手な「作品」をつくってしまうことです。 どんなに素敵なデザインで、素晴らしいアイディアやビジョンを内包していても、それをどういうプロダクツにするかを考えていないと、世に出ていくのは難しいと言えます。

そして、いまこのプロダクツにするために必要な知識がアナログからデジタルまで膨大な数となり、プロトコルを作り出すための言語(機械言語も含めた文字通りの言語もあれば、方法論、専門を超えた物の見方などもある)もまた、実に多岐にわたります。

つまり、クリエイター然として「作品」をつくったつもりがなくても、プロトコルへの理解不足や技術的な知識や技術そのものの不足が、コンテンツをプロダクツにする道を閉ざしてしまう可能性が高いため、自分が手がけたコンテンツをパッケージとして流通するチャンスを狭めてしまうのです。

そういう時代の変化というか、技術の変化を無視していると、昔ながらの職人は「先生」と揶揄されたり、いつの間にか仕事がなかったりするだけだったりします。 ここに、現在のデザイナーが直面する問題が潜んでいるのだと思っています。

製造会社が製造する「製品」を指す「プロダクツ」は、まだマーケティングの一要因であって「商品」とはなっていません。「パッケージ」化されて初めて「商品」として流通するのです。 しかし、デザイナーの仕事がデザイン作業のデジタル化によって、写植屋さんから製版屋さんの役割にまで格段に広がったように、コンテンツをプロダクツへと変換する作業をする「プロダクトメーカー」(仮)の仕事は、従来の専門知識とは別に、必要な知識と技術が周辺へと広がり、その仕事の範囲は格段に広がっていると言えるでしょう。

例えば、編集者の仕事が、本の制作だけではなく電子書籍を視野に入れれば、印刷ではない書籍制作方法を知る必要があるでしょうし、自分でソーシャルを利用した販売方法に参画することができるのですから、ツイッターやブログを使ってマーケティングをする最前線に編集者が加わっている場合もあるでしょう。

またデザイナーも、デザインするものが本だけではなく「アプリ」まで含まれる時代はすぐそこまで来ているのではないでしょうか。そのとき、コンテンツをプロダクツにする作業に携わる「デザイナー」はどこまで「仕事」に参加できるでしょうか。

この「プロダクツメーカー(仮)」という職分は、誰のものなのか。というよりも、デザイナーはすでに、そのポジションに立たざるをえない時代になっていると私は考えます。そして、その為には、デザインという専門知識の周辺にある諸事情を学んで、どういうプロトコルがプロダクツとパッケージの間に必要なのかを身につけなければいけないのではないかと思います。

その上で、電子書籍iPhoneアプリの世界に身を投じるべきなのではないかという気がしています。 その辺は、次回考えていきましょう。

2011年新聞・テレビ消滅

2011年新聞・テレビ消滅