【散策】浅草から吉原まで歩いてみた:その2 山谷堀公園と春慶院
待乳山聖天を出た我々一同は、すぐ横の今戸橋跡で立ち止まります。
今は埋め立てられた山谷堀跡を歩きます。
山谷堀(さんやぼり)は、かつてあった東京の水路。正確な築年数は不明だが、江戸初期に荒川の氾濫を防ぐため[1]、箕輪(三ノ輪)から大川(隅田川)への出入口である今戸まで造られた。現在は埋め立てられ、日本堤から隅田川入口までの約700mが台東区立の「山谷堀公園」として整備されている。
今は公園になっている山谷堀は、昔は、浅草から吉原に船で行く通路でした。
この時期は殺風景な公園ですが、桜の時期は素晴らしい景色になるようです。
振り向けばスカイツリーですし、公園の中は、隅田川沿い同様に桜並木。
このブログにも詳しく乗ってました。
これから、江戸時代に思いを馳せながら、猪牙舟ならぬ徒歩で山谷堀を吉原へと向かいます。
道中に、正岡子規の句碑が有りました。
牡丹載せて 今戸へ帰る 小舟かな 子規
この牡丹が、遊女のことなのか、遊女からもらった花なのかは不明だそうですが、根岸の住人だった子規は、今戸から小舟で吉原へ通ったんでしょうね。
紙洗橋のあたりは、昔、紙漉きなどがいて、古紙を再生紙にするためにもう一度漉くのは熱して溶かした紙が冷めるまで時間があるので、その間、吉原で遊女をからかって時間つぶしをするのが常だったそうです。
これが、「ひやかし」の語源と言われています。
地方橋のあたりは、踊りにつける三味線や太鼓をなす地方さん(じかたさん)が多く住んでいたから地名になった、など、色々なうんちくを聞きながら、日本堤に向かいます。
山谷堀公園を終点まで歩いて、日本堤のあたりまで来たらば、寄りたいのはこちら。
春慶院は、二代目高尾太夫の墓がある浄土宗のお寺です。
万治高尾と言われた、この太夫の墓は、もともと日本堤で、今は巣鴨に移転した西方寺にもありますが、こちらの墓は、仙台藩が建てたと言われるものだそうです。
さて、ようやく吉原へと向かいますが、今日はここまで。