【散策】浅草から吉原まで歩いてみた:その3 吉原、鷲神社、そして浄閑寺まで(終了)
春慶院の跡は、土手通りを歩いてガソリンスタンド前へ。
吉原の入り口を示す、見返り柳の碑と柳の木が立っています。
当然この柳は、後世に植えたもので、もともとの見返り柳は、もう少し山谷堀側にあったそうです。
ここから、衣紋通りを抜けて吉原大門のあった場所を示した柱などを見つつ、吉原の往時の様子を説明していきます。
最近は、地図を持って街歩きをしているグループが増えましたが、私達がこの吉原歩きを始めた7年くらい前は、町の住人から白い目で見られ、時に怒られたものです。
最近では、ソープランドも下火なのか勢いがない感じがする街になってしまいました。
江戸期の大店だった稲本楼後に立つ稲本ホテルの休館の屋根でひなたぼっこする猫は、この街で何代目かの猫なんだろうかとか、馬鹿なことを考えつつ、ここで昼休憩。
皆さんがお店に入っている間、私は、すぐ近所のこちらの神社にお邪魔しました。
お酉さまで人気の鷲神社。
私は、新宿の花園神社の酉の市に行きますが、もともと、この酉の市という風習を知ったのは、30年ほど前に勤めていた会社でのことでした。
神田にあった会社に務めていたのですが、その会社では、毎年、向島出身の専務(当時)を筆頭に、熊手を買いにここまでタクシーを飛ばしたものです。
その頃は、もちろん地元では人気でしたが、今ほど盛んではなかった気がします。
本堂でお賽銭をいれるところに、何かいます
このオカメの面の口に入れるようになっています。
やってみた。
食われる感じがするね。
このオカメは、「なでおかめ」というそうですよ。
なでおかめのお守りなんかも有りました。
境内には、ご当地にふさわしい句碑が。
雑踏や 熊手押し合う 酉の市 子規
こちらは樋口一葉の文学碑。
吉原に戻って、吉原神社。
yoshiwarajinja.tokyo-jinjacho.or.jp
凛々しい狛犬
こっちは、ちょっとお侠な表情。
桜を新たに植えたということで、また春に見に来たいものです。
そして、吉原神社の奥宮となる弁天様へ。
入り口の塔は、明治時代の吉原大門のレプリカになっていて、福地桜痴の詩が彫られています。
「春夢正濃満街桜雲(春夢まさにこまやかなり 満街の桜雲」
「秋信先通両行燈影(秋信先に通ず 両行の灯影)」
弁天様の本宮は、芸大生たちの手で美しく飾られています。
この場所はもともと池でした。その悲しい歴史が記されています。
弁天様の像は、神々しいまで。
そして、吉原大門前から循環バス(めぐりん)に乗って三ノ輪駅前へ。
駅からほど近くに佇む、この寺が、投げ込み寺と言われた浄閑寺です。
浄閑寺は安政2年(1855)の大地震の際にたくさんの新吉原の遊女が投げ込むように葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳に、「生まれては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれ、新吉原総霊塔が建立された。
檀徒のほかに、遊女やその子供の名前を記した、寛保3年(1743)から大正15年(1926)にいたる、慈十冊の過去帳が現存する。
遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れている。「今の世のわかき人々」にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたものである。
ということで、こちらにある吉原慰霊塔に卒塔婆を供養として献じようということなのです。
皆でお参りしまして、線香をたて、花を供え、お祈りしました。
この薄雲会という名で、活動をいろいろしてきたんですが、今回で一区切りをつけるということで、記念のお参りだったのでした。
この浄閑寺は、慰霊塔の他にも永井荷風の碑だとか、三遊亭歌笑塚だとか、色々な史跡が有ります。詳しくは公式サイトをどうぞ。
歌笑は戦後の人気はなし家であった。檀家ではないが、この墓の右隣にある松上家が妻の実家である関係からここに葬られたものである。
ここで、今回の散策も終点。
あとは、浅草に流れて打ち上げやって、二次会で神谷バーへ。
なんとも月が明るく、聞けば満月だったとか。
月とツリーを取ろうとするとなかなか難しい。
何かの始まりなのかもしれませんね。
おしまい。