理化学研究所脳科学総合研究センターの利根川進センター長が退任すると発表された。
利根川先生と言えばノーベル賞受賞者でありながr、受賞テーマである免疫機構から、その研究テーマを脳に変えて、大きな業績を上げてきた分子生物学者だ。
大きな成果を上げた研究テーマを続けずに、次の分野にチャレンジするというのはありそうでなかなかないことで、しかも、その新分野で成果を出すというのもすごいことだ。
そんな利根川先生とはなぜか、私の人生と数回交差することがあったので、人生の記録として記しておきたい。
最初にお目にかかったのは、当時の仕事でのインタビューだった。
2001年4月4日に野茂英雄がレッドソックスでの初登板でノーヒットノーランを記録したその日(野茂英雄 - Wikipedia)。私は、ボストンの街を翌日のインタビューのことを考えながら歩いていた。
そのインタビュー相手というのが、利根川先生だった。
当初のアポイントメント時間は、11時から12時まで。ところが朝9時から始まった会議が押してしまい、同日の17時から再度インタビューすることになった。
16時30分くらいに研究室に行くと、隣の部屋から大きな声が聞こえている。利根川先生が話しているらしい。秘書に聞くと、朝9時からこの調子だという。会議の9割は利根川先生が話している。決して流暢ではない英語だが、相手に口を挟ませない迫力が感じられた。そんな人にインタビューすると思うと、ますます緊張が増してくる。
18時頃ようやく終わった会議の後、休憩しますかといった私を制して、すぐに始めましょうと利根川先生が言ったのを合図にインタビューを開始した。
私が一言質問すると、その返事が10分以上。その繰り返しで、あっという間に2時間が経った。予定していた内容を聞き終わり、インタビューを終えようとした私に、利根川先生は短かったね、と言った。そんなことはない。
インタビューをまとめた記事は掲載した分だけで約2万字。それでもインタビューで聞いた分量の1割以下だった。
そのインタビューは私が編集者として加わっていた科学情報誌に掲載された後、利根川先生が推薦してくださって岩波新書にも掲載された。
後にも先にも、あれほど準備して臨んで、緊張した仕事はなかった。
そして、その後、奥様の吉成真由美さんにも何度か原稿をお願いすることもあった。
時は流れ、私は編集者から研究の世界に飛び込むことになった。
そんな2009年4月。利根川先生が理研BSIのセンター長に赴任された。
その就任挨拶の場に、私もいた。私の勤め先が理研になっていたことに、利根川先生と一緒に来ていた吉成さんが驚いていた。
そして、2017年6月。
利根川先生が退任された時も、私は理研に勤めていた。
しかし、その退任前の最終講義の日に、体調を崩していた私は理研所内にいられなかった。それが悔やまれる。
いつの間にか、あのインタビューから16年が経っていた。
時の流れは早いというのは、あまりに陳腐な言い方だけど、早いだけではなく、その時間がなんだったのかと考える。
その時間は誰にも同じように流れているようで、全く別の密度で流れているのだなと感じる。
私の密度は濃かったのか、薄かったのか。解像度は高かったのか、粗かったのか。
それは、今わかることではなく、いつか気がつくことのように思う。