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社長さんの知恵袋 第4回 ユビキタス化するメディア:2010年7月

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(坂村健先生)

 

第4回ともなると、少し具体的になってくるのが相場ですが、もう一度、概念的整理をさせてください。

前回、アナログとデジタルの急激な変化を体感した世代であるという話を書きましたが、もうひとつ重要なキーワードに「ユビキタス」というのがあるのではないかと思っています。

ソーシャル化というのが、なぜメディアで起きているかというと、メディアがユビキタス化したからではないかと考えています。 ソーシャル化というのが使う側の論理だとすると、ユビキタス化は送る側の論理なのかなという気もします。テクノロジーの進化で身の回りのメディアが変化してしまったという話を今回はお届けします。

 

メディアはメッセージ

 

メディアはメッセージだ、といったのはマーシャル・マクルーハンでした。

メディアというのは「媒体」のことなのですが、媒体自体がメッセージを含んでいるのだというマクルーハンの主張は、ホットなメディアとクールなメディアとか、いろいろありまして、 それを説明する余裕はないんですが、そのマクルーハンさんが今の状況を見たらばなんと言うだろうという空想はありうるだろうと思います。

デジタル化が進んだことで、クールだとされた低解像度のメディア(テレビ、電話など)がホットだとされる高解像度のメディア(映画、ラジオ、写真や印刷物など)と同等の解像度で、一緒くたに「ある媒体」を利用して送られるようになってきた状況。しかも、その媒体が人間の生活を24時間、あらゆる場所にいても取り巻いている状況。それについてのマクルーハンの意見を聞いてみたいものです。

 自分の言葉をパロディにしたかのように「メディアはマッサージ」と言い出すマクルーハンですから、「視覚」から「聴覚」優位の文化への移行が起こるとした主張も、現代のメディア状況を見れば、「視聴覚」文化という融合文化に移行したと言い直すかもしれません。

  メディアが、ある感覚だけを刺激するマッサージの道具だった時代は、「視覚」か「聴覚」かという議論も有効だったかもしれませんが、いまやデジタルメディアはあらゆる感覚を同時に刺激しようと躍起になっています。低解像度か高解像度かでもなく、マクルーハンの分類を今に活かすとすれば「参与性が高い」か「低い」かが最も有効かもしれません。

「参与性が高い」メディアは「クール」であり、次世代メディアだと指摘しているからです。 参与性が高いメディアとは、ソーシャル・メディアにほかなりません。マクルーハンの時代にはなかったものでも、方向性としては間違っていなかったということでしょうか。

 

ユビキタスって何?

 

ユビキタス社会という言葉が今では当たり前のように使われていますが、私がこの言葉を最初に聞いた1990年代では、なんのことだかわかりませんでした。

1984年に東大の坂村健さんがTRONプロジェクトを起こして、その時に「どこでもコンピューター」というドラえもんのようなことを言い出しました。そして1991年にアメリカ・ゼロックスのパロアルト研究所で論文がでて、この言葉が一人歩きし「遍在」という意味で使われるようになります。

もともとはラテン語で「神はあまねく存在する」という意味なので「遍在(あまねく存在する)」(偏在だと意味が違うので気をつけて)ということなのですが、この神は、西欧では「一人の全能神」が社会全体を覆っているのに対して、日本では「八百万の神」の話になってしまうところが面白い上に、根本的な違いにもなっています。

中央に巨大なコンピュータがあって、そこからネットワークが出ている感じがする西欧のユビキタス化に対して、日本では分散化した小さなコンピュータのネットワークによる問題解決という感じがします。

TRONプロジェクトが成功している分野が電気製品への埋め込みコンピュータだという事実すらも、この違いにつながっているような気さえしてしまいます。

いまではユビキタス社会ではコンピュータが遍在するのではなく「サービス」が遍在するという考えに変わっているそうですが、その「サービス」の遍在に重要なのはネットワークだということになります。「いつでも、どこでも、だれでも」コンピュータによるサービスが受けられる社会は、「いつでも、どこでも、だれでも」がメディアと接することになる社会でもあります。

サービスを受ける端末がPCの形をしていないうえ、視覚でも聴覚でも刺激をうけるものすべてとなれば、これは「何らかのメッセージを受けるメディア」そのものと言えるのではないでしょうか。

似た様な言葉で「アンビエント」というのがあり、これは主に音楽に使われてきたのですが、最近、佐々木俊尚さんが『電子書籍の衝撃』の中で「本のアンビエント化」という言葉を説き、さらに社会に広がる状況を「アンビエント」という言葉で説明しようとしています。

でも、マルチメディアプラットフォームに対応したコンテンツの広がりを「アンビエント化」と呼ぶのは、どうも私には気持ちが悪い。

「いつでも、どこでも、だれでも」手に入る状況は、「ユビキタス化」ではないのかと思うのです。新たな言葉を作らなくても、メディアは間違いなくユビキタス化しています。 そのことを考えてみましょう。

 

テレビの登場と変容

 

マクルーハンがクールなメディアとして電子メディアの筆頭に挙げたのがテレビでした。1960年代ですから、それは当然かも知れません。

テレビは、私のような戦後高度経済成長期の子どもたちにとっては、生まれた時からあって最大の影響力を持った「メディアの王様」でした。

昔、テレビが家庭に入り始めた頃、テレビはお茶の間の中心にありました。家族で一台のテレビをみんなで見る時代。チャンネル権が家長にあった時代。テレビが届けるメッセージは「家族に共通」のものでした。

白黒の画面はカラーになり、回すチャンネルがタッチチャンネルになり、リモコンが主流になる頃、テレビは一家に一台から各部屋に一台になり、チャンネル権を持つのは家族に一人から各自それぞれになりました。

この変化の中で、テレビはマスメディアでありながらもセグメントされた番組を多数用意する必要が出てきました。メッセージの細分化はメディアの細分化を必要とするからです。

テレビは映画とは異なり、無料でコンテンツを提供しています。製作費は番組提供会社すなわち広告主となる企業から支払われます。このあたりはアメリカと日本では製作費の流れが異なるのですが、日本では広告代理店がテレビ局が提供する番組枠を買って、そこに企業を当てはめていくのが主流です。テレビというメディアが提供するメッセージは、テレビ自身が送るものばかりではなく、広告代理店が中間に入って、広告主である企業が提供したいメッセージ(ブランディングであったり商品アピールであったり)を作ることが主流となっていきます。(最初からそうではなかったんです)

メディアに載せるメッセージが企業広告が主流になる中で、ターゲットセグメントに対応した広告を提供したい広告主はメディアの細分化に敏感になります。 逆に考えれば、広告が取りやすい番組やターゲットのはっきりした番組がメディアの主流になっていくということでもあります。

さらに、キー局とネット局というテレビ局が送る地上波だけではなく、衛星放送やケーブルテレビなどを利用した多チャンネル時代になり、様々な専用チャンネルが現れ、視聴者は細分化されたチャンネルを自由に契約し視聴することができるようになります。

そこに地上波のデジタル放送化、いわゆる「地デジ化」が起こります。そして、デジタル放送に配分されている周波数帯のうちの1セグメントを利用した携帯電話向け低解像度放送(つまりワンセグ)が出てきて、携帯電話でもテレビが見られるようになりました。

インターネットにデータを送信して動画を見る仕組みも登場し、動画配信を使って携帯電話会社が独自の番組を流すサービスが始まると、携帯でみている番組のどれがテレビでネット配信放送なのか分からなくなってきます。さらに、携帯とテレビをつないでテレビの大画面で携帯向けのデータ配信番組を見たりすると、「動画番組」は、テレビ局だろうが携帯電話会社のサービスだろうが、その他のネット上の動画サービスだろうが、見る側にはどうでも良いわけで、好きなものを好きなときに好きなように見たい、という欲望をどう満たすかだけが大事になるわけです。

こうしてお茶の間の定まった場所にあるテレビでだけ受容できたサービスだった「テレビ番組を見る」という行為は、どこでも、いつでも、誰でもできることになったわけです。 このメディアが遍在(ユビキタス)し、あらゆるところで、あらゆるサービスを受けることができるのがユビキタス社会であり、その成立を可能にしたのは、デジタルネットワークであり、受信デバイス、つまり、スマートフォンであったり、モバイルコンピューターの登場だったりするわけです。

そうなると、みんなで見るものから、一人で見るものへ、お茶の間で見るものから、どこか分からない場所で見るものへ、そのメディアに載せるコンテンツは変わらなければいけないでしょうし、見る側が見る場所に応じたコンテンツを選択するようになっていくでしょう。

マスメディアの時代からユビキタスメディアの時代になったいま、メディアに載せる「番組」や「広告」や「情報」の形も、ある程度変わらざるを得ないのは、変わらないと誰にも選択されなくなってしまうからなのです。

 

テレビはメディアかコンテンツか

 

ユビキタス化したテレビを考えるときに、どこからどこまでが「テレビ」なんだろうと思ってしまいます。 箱型の受像機(今や、その形も様々ですが)なのか、放送局なのか、番組なのか、広告なのか。その全てなのか。

テレビ局が、番組表通りに放送する事に熱意を注いでいても、見る側は録画してしまえば、その時間に観るかどうかもわからないし、誰と観るかも、どこで見るかも、昔のテレビに比べて、今やテレビ局にはコントロールできなくなっているわけです。

番組提供する企業にしてみても、ある番組枠にお金を払っているとしても、その番組枠で提供されているコンテンツのことよりも、その合間に提供する広告を見てもらえるかが重要だとすれば、いまや録画機能の付いている広告スキップ機能で飛ばされているかもしれないことがわかっていながら、今までと同じようにテレビ番組にお金は払えない。

コンテンツと一緒になっているという意味で言えば、Youtubeに広告乗せる方が効率的なのかもしれません。

こうしたメディアのユビキタス化に伴う問題というのはテレビだけのことではないのですが、テレビが最大のメディアだったことを考えて、テレビというメディアのユビキタス化について考えてみました。

こうした「いつでも、どこでも、だれでも」というユビキタス化の特性は、メディアにコンテンツとの関係に新しい視点が必要であることを示しています。 これまでメディアが有限な世界の中で展開してきたマネタイズ(有料化)の仕組みでは、視聴者の数がコンテンツの優秀性を示し、それが評価としてのお金とつながっていました。

ところが、メディアがユビキタス化すると、いくらコンテンツが優れていても、お金を生む仕組みと分離してしまい、そのメディアにおけるコンテンツの有利性というのを証明することが難しくなるのです。

メディアに重要なのはコンテンツではなく、単純なメッセージなのではないか? いまや、企業も代理店もそう考えているかもしれません。

でもそれは間違っていると私は思います。メディアの捉え方を変えないといけないのです。

マクルーハンの問いをもう一度考えると、コンテンツを通してメッセージを届けることの意味を考えることにつながってきました。

じゃ、コンテンツってなんなのでしょうか。 次回はこのへんを考えたいと思います。

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