新宿三光町日乗

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【思い出】親に置き去りにされたのではなく親を置き去りにした話

七飯町の山で親に置き去りにされた男の子が無事自衛隊駐屯地で見つかってよかったですね。

いろんなまとめ記事があって、最近のネット社会は凄いなと思います。

www.akb48matomemory.com

【置き去り】田野岡大和くんを発見保護した自衛隊員が爆弾発言…凄すぎる…※画像あり【北海道七飯町7歳男児行方不明】 : NEWSまとめもりー|2chまとめブログ

 

今後の人生で、大和君がこの事件をどう消化するのが気になります。

 

私は母方が七飯町なので、山で捜索をしている消防団に叔父がいないか探しておりましたが、今回は参加してないようです。彼は、七飯町の山の捜索史上最も大変だった「ばんだい号墜落事故」の捜索に消防団として参加しており、その困難を飲むと語ってくれた。

ばんだい号墜落事故 - Wikipedia

その思い出があるので、今回の捜索でも大変だろうなあと思っていた次第です。

それにしても、自衛隊基地に逃げたとは、この子は随分と賢い感じがします。

単に方向を間違って二股を別の方向に曲がったらばついちゃっただけのようですが、なぜ今回の捜索が大変だったかというと、この子供が予期せぬ法に進むということが忘れられていたのではないかと思うのです。

大人の頭で「転落」「下山」という発想で捜索した結果が6日間もかかってしまったわけで、あのあたりで道沿いに10キロ行って小屋がないかを総当りにした時に自衛隊駐屯地の中に入るという選択肢を排除したことが捜索を難しくしたのでしょう。

 

さて、実は私も捜索されたことが有りまして、と言っても何日もではなく親が半日探した程度ですが、その2回の経験について、親だけではなく本人も50年近くたっても覚えています。

 

1回めは6歳で小学校に上る直前くらい。

苫小牧駅前の金市館という今はなき衣料品デパートが有りまして、この建物が5階建てで最上階に子供が遊ぶコーナーが有るという昔ながらの造りでした。

妹が生まれたばかりで、赤ちゃん物を買いに来たはずなのですが、早々に買い物に飽きた私は、最上階の遊技場で一人で遊んでいたわけです。そして、それにも飽きて、親がいるであろう売り場に階段を降りて行きました。

しかし、4階にも3階にも2階にも親がいない。

私は、なぜか、両親が私を迎えに来るのを忘れて家に帰ったと思い込みます。

実は、この金市舘は、建物の2箇所、手前と奥に階段が有り、私が手間の階建を使って開花に降りた、ちょうどその頃、買い物が終わった両親が最上階に登って行き、私を迎えに行っていたらしい。

とにかくスレ違いになって、親も当然階下に降りていくのですが、私は一人、駅前にある金市館から駅の反対側になる当時の自宅に向かって歩いていたというわけ。

今の苫小牧駅周辺は自由通路もあるし、駅前も駅裏も開発されて建物があるけど、冬至は、駅の周りは国鉄で運ばれた貨物のための倉庫街で、駅の南側の道は有刺鉄線が巻かれた木製のフェンスが張り巡らされていて歩道もろくになかった。

その道沿いに1キロほど歩くと線路の下をくぐるトンネル状の歩道があって、そこをくぐって反対側にでると、岩倉組の工場や社員住宅などがあって、さらに2キロほどあるかないと自宅には着かない。

今はもう全く道も区画も変わってしまった木場町だけど、昭和40年代には広場も多く、草木が生い茂っていた場所だった。

底を一人で歩いて、家にたどり着いたけど、当然鍵がかかっていて入れない。

仕方がないので、家の前にで座って待っていたのを覚えている。

「何だ、帰ってないや」と思いながら。

そのまま寝てしまったらしく、両親が帰ってきたことのことは覚えていない。

ただ、次の日こっぴどく叱られたことだけ覚えている。

いや、その時は生きていた息子を前に泣くだけだったという母に叱られたのはもっと後になってからのことかもしれない。

 

大体が、後先を考えずに歩きまわる子供で、4歳の時に家の前の広場の向こうにある木材の山を見て、面白そうだと登っては釘を足の裏に挿してしまったり、1歳で歩けるようになってから母親の気が休まったことがない子供だったらしい。

今ならばADHDですね。

 

もう1階は小学校の時に、花見に緑ケ丘公園(苫小牧の人はかならず行く裏山のような場所)に行ったとき、まあ北海道は花見といえばジンギスカンなので、当然我が家も花ござを敷き、今のように携帯型のガスコンロが無い時代で、プロパンのミニボンベと一口コンロを持って山でジンギスカンをやるというおおらかな時代の話。

今はこういうふうなものでやるかもしれませんが、こんなの無かった。

イワタニ カセットフー エコジュニア CB-ECO-JR

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 こういう一口コンロにミニプロパンボンベ。

 こんなのを持っていく家庭もあった。

エスケイシリンダー LPガス容器 8kg用

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 で、これも途中で飽きて(何かと飽きっぽい)「向こうに行ってくる」とフラフラと走っていくわけです。今でこそ、緑ケ丘公園にも展望台などで来て綺麗に整備されましたが、その頃は本当にただの小山で、道路も一本しかなく、山菜採りや花見をする以外は、子どもたちの遊び場でした。

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(現在の緑ケ丘公園あたり)

 

そんな場所は、当時通っていた小学校(清水小学校)の裏山で、まあ土地勘がある場所だったので、放っておいても大丈夫と親も思ったのか、したいようにさせてくれたわけです。そして、本人は坂道を駆け下りるのにハマって(体重移動だけで走れて楽だから)、車もそれほど通らない道を何度か登ったり駆け下りたりしている時に、坂道を上がってきたタクシーを避けて転んで、後ろからゆっくり降りて来た車に右足を轢かれました。

この道が、アスファルト舗装前で、軽石を敷き詰めていた道だったおかげで、車に轢かれたと言っても軽石に埋もれた足の上にタイヤが乗ったくらいの事故。

でも事故は事故で、しかも、この車の持ち主がお医者さんだったので、速攻で車に載せられて病院へ。事故届けもなく、タクシーの運転手に一言こえかけただけで名前も告げていなかった。

これまたうちの両親は、いつまでも息子が帰ってこないので探しまわっているうちに、タクシー運転手から誰かが連れて行ったことだけを聞いたという。

 

その病院でレントゲンをとっても折れてもいなかったため、擦り傷の処置だけして、家まで車で送ってもらった。立派な大型車だったことだけ覚えている。

両親は家に帰っていて(タクシー運転手に聞いたから家に来るだろうと思ったらしい)、病院の先生は平謝り。私は、そんな大人を眺めていたのか、眠かったから寝たのか覚えていない。その後、うちの父親とその病院長と意気投合し、何度か飲みに行っていたらしい。

 

子供の頃は、親の言うことを聞かないと外に出されて鍵をかけられるとか、もうウチのコじゃないとか言われてデパートに置いてきぼりにされたりとか、そういうことは日常茶飯事だったのだけど、不思議と、親は迎えに来るものだと思っていたし、もしくは家に一人で帰ってしまうような子だったので、親も「置き去り」に教育的効果がないことをわかっていたようだった。

 

押し入れに閉じ込めると寝ちゃうし、外に出せば夜空を飽きずに眺めているし。

 

教育的効果が効かなかった子供は、大きくなって誰かに叱られても学ばないままです。

それじゃだめじゃん(©春風亭昇太