新宿三光町日乗

見かけたもの、出かけた場所、食べた料理などを写真中心に

【平成最後の日】どんな30年間でしたか?

なんとなく、平成を振り返ってみます。

実は、私の最初の転職が1989年1月1日付でした。

大学を卒業して入った会社を辞めて、表参道のマーケティング・プランなどを行う会社に入ることが決まったのが、1988年の秋。会社を辞めるのに3ヶ月かかって、ようやく年内いっぱいでの退職で折り合った頃、昭和天皇は危篤状態でした。

落ち着かない年末年始を過ぎ、1月4日に入社し、なんとか新会社で平日を過ごした後、土曜日に天皇崩御したニュースがありました。

そして、テレビで小渕官房長官(当時)が「平成」の額を掲げたのを見ていました。

1月1日付の入社だったので、私の健康保険証は、しばらく昭和64年1月1日付だったものです。何となく、新しい日付の保険証になるのがためらわれた程度には、昭和という元号に馴染みというか、未練があったのかもしれません。

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そこから平成はバブルの時代に入ります。

特に仕事で良い思いをしたわけではありませんが、世の中が浮かれていたのに合わせるように南青山の会社で夜中まで働いて、青山霊園横の坂を下って高樹町交差点あたりに出て飲んで、朝になってから帰って、仮眠して9時には会社に到着という暮らしを続けていたように思います。

六本木でも新宿でもタクシーは朝4時まで捕まらず、1万円を振るようにしてタクシーを止める人が本当にいた時代。自分の給料はそんなに増えたわけでもないのに、周りに煽られるように金遣いが荒くなって困りました。

その頃、ある勉強会で知り合った京都に本店がある建築会社のSさんと、キラー通り近くにあった彼の事務所兼住居で月に一度の異業種交流会を開催し、多くの人と知り合いました。その中の一人が、今の奥さんな訳ですが、その話は置いておいて。

最初は、10人足らずの参加者だった異業種交流会ですが、当時、こうした会社員が終業後に参加するイベントがブームで、私たちの会もリクルートの雑誌に紹介されたりして、いつの間にか、50人、100人という参加者の申し込みに追われるようになりました。いつの間にか、本業よりも、会場を予約し、参加者リストを作り、当日の講演を依頼しという活動の方が忙しくなったSさんが、ある日叫びます。

「やめた!こんなことに時間使うために東京に来たんやないんや、俺は!」

ひな祭りイベントと称して、女性ばかり50人程度の参加者が来た会を開催した後の打ち上げだったでしょうか。

「そうだよな。もっとこじんまりとやろうよ。昔みたいに」そう賛同した私でした。

異業種交流会で知り合った男女が結婚したり、会がきっかけで転職した人がいたり、いろんな人生が交差した会を主催していたSさんは、その後、バブル崩壊の後、京都に戻りました。東京で顧客開拓をした貢献で、本社に戻って出世したとかしないとか。

その後、私と妻が結婚したのが、93年。

その年に、令和天皇となる皇太子・浩宮が雅子さんと結婚しました。

それから25年。

昨年銀婚式を迎え、つつがなく暮らしています。

その間に、妻は3度転職しましたが、今の会社には15年以上になります。

私は、会社が南青山から天王洲に変わり、関連会社と合併して芝浦に移り、その後、役員になり、会社が解散し、フリーを1年やって、研究分野のマネージャーになり、色々あって、今は神保町でウェブ制作会社にいるというわけです。

住まいも、結婚当初は三軒茶屋で、弦巻に越して、新宿に移ったのが2000年。

それから19年。今も新宿住まいです。

生まれてから、1箇所に一番長く住んでいる場所になりました。

平成時代というよりも、私にとっては新宿時代とも言える、この19年が、大きく変化した時代でした。

仕事も遊びも楽しくやっていたのが、仕事も苦しくなり、遊びも辛くなり、いろいろなことがありました。

特に東日本大震災後には、大きな変化があった友人達も多かった。

銀座のお店を閉めて、働き方、生き方を考え直し、南青山で再出発したママ。

いくつかのお店で歌っていたのが、そのうちの一件のオーナーから店を譲られて、オーナーママになった歌姫。

震災が大きな転機になった方は多いかと思いますが、私の周りにも、転機を迎えた人が多くいました。

仕事以外で言えば、サイエンスコミュニケーション関係の会に参加して、イベントに参加したり、いろいろな方と知り合ったりしたことが大きかった。

それも、東日本大震災というか福島原発事故問題で大きな転機を迎えたように思います。

サイエンスコミュニケーションは原発事故に当たって何をしたのか、どうあるべきか、というような問いが苦しく迫り、苦い現実と向き合い、答えを求められる中で、それまでの活動をやめたり、変えたりした方もいました。

私も、転職して科学研究分野の当事者となっていたのもあり、自由な発信が出来なくなっていきました。それまで、科学政策批判や研究成果の発表に関する分析などをブログに書いていたのが、ある種の中の人となり、その役割も難しくなりました。

そうしたブログを通じて知り合った多くの方々との交流も、なんとなく薄れていきました。

そう平成の変化という点では、仕事のアナログからデジタルへの変化、そして、このブログやSNSという点も見逃せません。

1989年に転職した会社では、仕事の情報収拾にNiftyServe というパソコン通信を使っていました。

パソコンでアメリカの図書館などから論文や関連書籍を取り寄せたり、日本のニュースを検索したり、という情報収拾の仕方は、それまでとは違う画期的なものでした。

 pc98につないだ音響カプラーを使ってダイヤルアップアクセスをして、データはカセットテープにダウンロードし、検索結果をドットプリンターでプリントアウトしていたわけです。報告書や提案書をワープロ専用機OASYSで作って提出すると、その綺麗さに驚かれた時代です。

それでも、この頃はまだ多くの情報は、都立中央図書館に行って、書籍や新聞のコピーを集めたりしていたものです。

1990年当時、仕事用にAppleの画面一体型パソコンを一人一台持つ環境は、革新的なものでした。

写植屋さんに原稿を持っていき、上がってきた写植をトレスコ(トレーシングスコープ)で拡大したりして見出しを作り、レイアウトシートに貼って版下を作っていた前職での仕事ぶりとは全く違う先進的な仕事をしている気になったものです。

やっていたのは、まだまだ上司の企画書の清書レベルでしかなかったのですが。

そこから会社にパソコンが入り、ワープロが駆逐されワードで書類を作るようになり、版下づくりはDTPになり、パソコン通信はインターネットになり、あっという間に仕事環境は変わります。

本体とプリンターを揃えると100万円越えだったMac は一人一台のものになり、就職には自宅電話が必須だからと8万円以上出して買った電話の権利は紙くずになり、ポケットベルからPHSを経て、一人一台どころか複数台の携帯電話を持つ時代になりました。

全て、平成になって10年くらいにものでしょうか。

そして、1999年を迎え、ノストラダムスの大予言は全く訪れず、2000年問題を迎えることになるのでした。

徹夜で待機した人も多かった2000年も無事に超えたのに、平成から令和になろうとする中で、ATMが誤作動しているらしいですね。

nlab.itmedia.co.jp

 

デジタル時代でも、プログラムを作るのは、まだまだ人間なわけで、しかも、昔作ったシステムに秘伝のタレのように継ぎ足されているものも多いんでしょうから、きっとどこかにバグは埋まっているのでしょう。

それが旨味になっている、というわけはないですかね。

 

なんとなく、平成昔話を書いていたら、結構思い出してきて楽しいのですが、これ終わりそうもないので、この辺で。

総じて言えば、平成は面白かったです。

いろんなことがあったし、大きな変化に立ち会えた気がします。

これから、どういう変化が令和に訪れるのかわかりませんが、きっと、それも楽しいのではないかと、インターネット老人会なおじさんは思うわけです。

そして、その楽しさは、きっと人間が中心にいるからなんではないかなと。

人との出会いがやっぱり一番楽しいし、面白かったなと、平成を振り返って思う次第です。