【大人の遠足】ワインツーリズムが中止なら、自分たちが行けば良いのだ:その7:酒折宮と酒折ワイナリー
山梨県立科学館まで登った山道も辛かったけれど、この後の山下りが地味にきつい。
途中、少し早いけれど、それなりに紅葉している山の中をゆく感じになる。
本当に一部にしか、綺麗な紅葉はなく、でも一面モミジなのでもう少ししたら綺麗だろうなと思いながら。
登りは太腿が痛いが、下りはお尻とすねが痛くなってくる。
降る際に膝をうまくクッションにしないと、体重がお尻にかかってしまうからだ。
ようやく降り終えても、まだ天気は悪い。
山の上は煙って見えない。
あの中にいたのかと思うと感慨深い。
さて、次はどうしよう。
Facebookを見ると、残りの皆さんが10時30分過ぎに湯村温泉からシャトー酒折にタクシーで向かうと書いてあるではないか。今は、10時少し前だろうか。
これは、歩いて向かえばちょうど良い時間に合流できるのではないか?
すでに、湯村温泉から愛宕山越えしているので、怖いものはない。
山の手通りを東に進むと、カイテラスから善光寺が見えてくる。
善光寺は何度も伺いました。特に一昨年じっくり見ています。
そして、トンネルを越えようかと思ったところで、気になるものを見つけました。
これはなんぞ。
酒折宮は山梨県で唯一、古事記、日本書紀に記載のある古い神社です。記紀には、日本武尊が東夷征伐の帰りに酒折宮に立ち寄り、
「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」
と片歌で問いかけたところ、御火焚の者が
「かかなべて夜には九夜日には十日を」
と片歌で答えたことが記載されています。この問答歌のやりとりが日本における連歌の起源とされ、酒折宮は「連歌発祥の地」と言われています。
長年、この辺をうろうろしていて知りませんでした。
酒折のもとになるオヤシロがあったとは。
1900年前のことというのですが、なるほど趣深い神社でした。
御本殿は、昭和17年に立て直したものだそうです。
これが連歌の碑ですね。
本居宣長の碑。
さらに1791年(寛政3年)、国学者の本居宣長は、甲斐在住の門弟である萩原元克に依頼され『酒折宮寿詞(よごと)』を撰文し、それから48年後の1839年(天保10年)になり平田篤胤の書によって『酒折宮寿詞』は『酒折祠碑』と並んで建立され、2つの碑文は現在も酒折宮境内に残っている。
由緒正しい感じがしますね。
お参りした後は、酒折ワイナリーに行くわけですが、これがまた坂の上なんですよね。
徒歩で登るのはきつい。
這々の体で到着。入り口で検温された時は、熱があると言われるんじゃないかと気が気じゃありませんでした。
早速甲州の飲み比べ700円をいただきます。
燻製した6pチーズがうまい。
ここで皆さんと合流できました。10時50分くらいでしたかね。
この頃にはようやく晴れてきました。
ここで少しまったりして、13時に予約してあるドメーヌQへと向かうことになります。
湯村温泉ホテルでいただいた1000円のチケットで、ここでお土産を買いました。
下がったり、上がったり、人生のような1時間を過ごして、ようやく少し落ち着いたわけです。
湯村温泉から通算で、2時間半、13000歩ほど歩いたことになります。
(続きます)